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銀漱コラム vol.14

JUGEMテーマ:演劇・舞台


『前回に続き数回に渡り「身体的行動 (精神生理学的行動) 」つい、少し長くなります。

まず、リクエストのお答え?から
「身体的行動 (精神生理学的行動)」とは、並行表記です。以前から、システム関連の出版物では「身体的行動 」と表記されていますが、この言葉もスタニスラフスキー自身が適当な言葉を見つけられず、暫定的に用いた造語でした。その後の研究と翻訳研究から、「精神生理学的行動」の方が、より具体的で適切だと言う動きが強まり、我々も、これに習いました。この他にも、「超課題」が「超目標」「超目的」に移行中などが有ります。

ではこの「身体的行動」、一部の指導者は、マイム或いはゼスチャーの訓練だと解釈している方もいらっしゃいます。
初期の訓練では、それに近い部分も有りますが、ここで言う「身体的行動 」は「精神生理学的行動」を意味し、内的・外的行動と精神的行動の強い相互関係を含んでいます。
システムでは、俳優にとってまず第一に必要な事は、正しく、かつ最も初歩的でシンプルな分かりやすい身体行動を発見する事。そして、それらに対する内面的な衝動から始めなさい、と説いています。
人間は人前に出た時、内外に色々な緊張が現れます。このストレスはシステムの例でも、舞台上の椅子にただ座りなさいと言われても、演者は過度の緊張に囚われる事が知られています。
この精神的(内的)緊張と肉体的(外的)緊張は、俳優の創造過程では弊害になります。
日常生活では、歩くこと、ビンのふたを開ける事などは、ほぼ無意識に、かつ最低限の消費エネルギーで正確にこなします。これが、舞台・カメラ前では不必要な筋肉の動き(緊張)が現れます。

まず、初期の訓練段階では、日常的動作を実際には物を持たず、無対象で再現していきます。ごくごく簡単な動作から始めます。

この時、日常での筋肉の動きをよく観察し(感じ)、これを無理なく再現出来るまで根気欲続けます。一度にいくつもの事を行わず、例えば、「ペットボトルのふたを開ける」事を始めたら、習得出来るまでこれだけを続けます。中途半端にして次の行動を訓練すると、段々雑になり最終的に、時間の浪費に終わります。一つが出来るとコツを覚え、次から次第に、習得にかかる時間が短縮されて行きます。あせって雑にしない事です。この時点では、マイムの訓練に似ています。しかし、マイムより強く意識すべきは、無対象物を強力にイメージしてそれを扱う事です。これは後の「公開の孤独」「内的ビジョン」の為にも必ず心がける事です。
軽く見てはいけません。これは役の生活の半分以上の部分に値する事になります。プロのオペラの歌手も楽器の演奏家もスポーツ選手も、毎日基礎訓練の為の時間を作り、日々体をチューニングしています。なのに何故、役者はそれを行わないのか、不思議でなりません。

次回は、単純動作から「貫通行動」へのプロセスの予定です。』 (2010年7月19日号より)


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銀漱コラム vol.13


『今回から数回に渡り「身体的行動 (精神生理学的行動) 」ついて少々。

この「身体的行動」、我々はスタニスラフスキー・システム(以下、K.S.システム)の後半部、或いは後期に当る部分と考えています。
K.S.システムで、一般的で読み易い出版物に「俳優修行上・下」が有ります。しかし、これはK.S.システムのごく一部であり、不完全な部分も多く、未だに世界各地で混乱と誤用を招いています。
日本でも出版されていますが、これはハプグッド版の和訳本で、K.S.システムが本来重視していた部分が欠落、省略されていたり、ロシア版の直訳でもない為、本来のK.S.システムの入門書としても不適当な面も有る事も確かです。現在でも、ロシア版からの直訳本の出版には、数々の複雑な著作権処理が必要な為、「新訳・俳優修行」が出版されづらい状況があります。
また、K.S.システムは完成させた物ではなく、スタニスラフスキー自身の言葉で「日々、研究と実験を積み重ねて行くべきだ」と言わしめています。
現在、日本国内で出版されている「俳優修行」は、戦前に初版されたもので、当然、その後もロシアでは進化しているのです。以前に「俳優修行」だけで「K.S.システムが理解出来た」と思うのは間違いだとお話したのは、こう言った出版事情も有っての事です。

特に、我々が後期と呼んでいる部分では、「身体的行動」の重要性と研究過程がより深く提示されているのですが、残念ながら、なかなか新しい情報が入手出来ないのが現状です。
この為「俳優修行」は、演劇研究者にとっては今でも重要なバイブル的存在では有りますが、これを、より正確に、かつ深める為には、読んだだけでは事足りず、日々の稽古で実践されなければ意味が半減してしまいます。そして、可能な環境で有れば、日々、研究・実践している指導者の元で研究する事が望ましいのです。特に、わが国のように、独自の演技論を持たないのであれば、尚更の事です。一部ではK.S.システムを良く知っていると称して、システムを批判する指導者もいますが、天才俳優によって開発されたこの演技論を、きちんと検証して言って欲しいものです。少なくとも、この革命的発見のK.S.システムの更なる研究、実践は、すべての演劇人の責務であり、事、わが国の演劇文化においては、絶対不可欠である事を、再確認すべきなのです。

次回からは「身体的行動 (精神生理学的行動)」の具体的な側面に入りたいと思います。』 (2010年7月13日号より)


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銀漱コラム vol.12


『今回は「セリフ」出しについてです。

前回、セリフの抑揚・音程を一生懸命練習する事の危険性について、軽く触れました。
これは、以前からもちょくちょく目にする光景でした。舞台では、確かにセリフも重要な「要素」では有ります。しかし、演技全体として見た場合、セリフの占める割合は、演者が思う程多くは無いのです。
人間の精神生理的活動の中で、何かの欲求が起こり、それを満たす為の行動が起こります。例えば「ノドが乾き」「水を飲みたくなった」ので、「立ち上がり、水道に行って」「水を飲む」。必ず何かしらの欲求が行動に先行して起こります。この段階では、セリフが発生していない事に注目して下さい。通常の劇作では「私は水が飲みたい」と言ってから「ノドが乾く」事は有り得ないのです。
日々のエチュードの練習でも、セリフ付きのエチュードは、無言エチュードが習熟してからの次の段階で行われます。本来は、セリフの練習以前に重要な、「身体的行動」についての研究が先に行われるのです。しかし、一旦台本を手にして稽古に入ると、セリフの言い回しばかりに目が行ってしまいます。この問題点は「身体的行動」についての練習が不十分であったり、指導者自身が「身体的行動」の重要性を把握出来ておらず、しかるに、稽古中も適切な指摘や誘導が出来ない為に起こる事が多い様です。舞台的創造の過程での「身体的行動」がおざなりにされ、一見取っ付きやすく目立つ「言葉」に注意が向いてしまう為に起こります。
前回もお話したように、自分自身が信頼出来る行動線を取れば、生きた抑揚、表現に適った音質が自然と、それも生き生きとして生まれて来ます。演者がセリフに頼り、必要な動きが不足したままセリフの応酬に走る場合、演出者は、演者自身が、舞台上での存在価値を見失った状態と判断します。真実の生理的、有機的行動を捉えず、よって舞台上で何ら信頼出来る真実を掴みきれず、演者が迷子になっている状態です。

我々の舞台制作では、通常のような作者や演出者による「本読み」は行っていません。これは、作品に対して冷たい接近をしない為の一つの策なのです。演出者の中には、細かな分析の上に立ち、口立てを多用する方も有れば、全てのプランが出来ていてそれに沿って進める方も居ます。その口立てが流暢で有ったり、プランがきっかり仕組まれ、演出者の手本演技のおまけ付きであったり、それも、いずれの場合も天才的で有ればあるほど、演者の創造的精神活動は消えうせ、演出の奴隷と化してしまうのです。「言葉」は、人間が他者に伝えたい要素の内の10%程度しかカヴァー出来ないとも言われています。増してや、全身芸術の舞台的創造となれば、言葉以外の緻密な表現が必要になるのです。
次回は今回に関連して「身体的行動」の予定です。これも多くの誤解が有るのです。』 (2010年7月4日号より)


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銀漱コラム vol.11


『前回、「行動する」について簡単に触れて来ました。
ここで、少し戻して『魔法のif』に付いての補足説明を。
先日たまたま、あるレッスン資料を見る機会が有りましたが、その中で有りがちな「魔法のif」についての誤解、説明不備を目にしました。これは、多くの場合、市販の出版本、例えば「俳優修行・上下巻」などを頼りに作成された場合が多いです。
スタニスラフスキー・システムは本来単純ですが、人間の複雑な器官の働きゆえ、文章にすると大変難解になってしまいます。そのため「俳優修行」ではレッスン生を主人公にした、若干物語形式になっています。これはあくまで分かりやすく書かれたものであり、翻訳上の欠点もあります。その為、「俳優修行」を読んだだけで、スタニスラフスキー・システムを理解したと思うのは間違いなのです。
以前にも触れた『魔法のif』の使い方、前回も一般的な使い方として「仮にもし、自分だったらこう言う場合、どう考え行動するか」を考えると良いとお話しました。 
しかし、これは分かりやすく一般的な言い方で、これだけでは無いのです。スタニスラフスキーは可能な場面ではこの『仮にもし』の多用を薦めました。つまり「こう言う場合」だけではなく、「もし私が、これこれの所に住んでいたら」「もし私の性格が、これこれだったら」「もし私の職業が、これこれだったら」など等、役のアプローチで使える場面では積極的に使ってみる事を薦めました。そして大事なのは「だとしたら、私はどう考え、どうふるまい、どう行動するか」を導き出す事でした。行動が起こる動機を把握し、きちんと身体的行動を起こす。この身体的行動、動作、仕草、所作までを含め、ただちに行動する事が、大変重用だと言う事を、繰り返し説いていました。
最近の声優ブームも相まって、初歩の演技者の場合、セリフの稽古と称して、セリフの言い回し、音程、抑揚を稽古場で一生懸命練習している光景を目にします。しかし、言葉と言うものは、人間の内面的欲求や、そこから起こる身体的行動から自然と発せられるものです。ですから、身体的行動や行動の動機を吟味せずに、セリフの抑揚を練習する事は、本来の有機的連鎖とは無関係になってしまいます。ただ誠実に行動すれば、抑揚もセリフだても自然と生まれてくるのです。逆を言えば「何かセリフの言い回しが気になる」と言う時は、身体的行動が雑か一般的で有る場合がほとんどで、芸術的創造状態では無いのです。

無言下のエチュードなどで良く目にするのが、数人で演じてはいるが、演者も指導者もエチュードを理解しておらず、一般的な演技場面として仕上がれば良しとしてしまうものです。何か各々が不完全燃焼で活気がなく、何を達成出来たのか掴めていません。場合によっては言葉の使用を許可すると、果てしない言葉遊びに終始してしまう。これは、信頼出来る舞台的真実を掴めていない時に起こります。無対象芝居でも代用品芝居でも、そこにある物を日常同様正しく扱わなくてはなりません。その他の細かい行動もよく吟味し、日常同様に行なわなければなりません。この一連の行動を大雑把に行う事で、舞台的信頼は遠のき内面ではなんら連鎖反応が起きません。結果として外形的なパントマイムのような説明的動作に終わってしまうのです。 

次回は「セリフ」の発言についての予定です。』 (2010年6月26日号より)


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銀漱コラム vol.10


『前回、スタニスラフスキーは「行動」する事に重きを置いていた、とお話しました。

観客は、俳優の頭の中に有るものは見えません。また、俳優は頭の中で起こっていることや、感情を全てセリフで表現することも出来ません。観客は俳優の行動を通して、舞台上で何が起こっているのかを知ります。
身体が本当の動きをすれば、内面は正しく反応し、感情も動き出します。どんな些細な行動も、おざなりにし「○○の様な動き」にすれば、内面は何も反応を起こしません。
相手を見るなら「ちゃんと見る」、眺めてはいけません。会話をするなら、相手をよく見て「ちゃんと聞く」。大げさにやって見せる必要は無い、真実に基づいて行動すればよく、行動の中でセリフが生まれる。
「なぜこれをするのか」状況を豊かにすれば、イマジネーションはより鮮明になり、取るべき行動もはっきりしてくる。

近代演劇では、観客は俳優が、自分達と同じような動作行動すると期待し、そうでは無いと、「あれはウソだ。大袈裟だ」と評価、拒否される。シェイクスピア劇では、セリフの中にどう行動し、動作するかが書かれているが、イプセン以来、身体行動の新しい演技が必要となったのです。
「なぜこうやって動くのか」演技上の行動を再確認していかなければなりません。
ただし、この時、虚構に虚構を付け加えてはなりません。
例えば、ある俳優が行動の動機を「兄弟の為」としたとします。舞台上、台本上に兄弟の存在、係わりがはっきりしていれば良いですが、何も明示されていなかったら「兄弟」は、俳優の都合で加えられた架空の動機で、虚構に虚構を加えた事になり、なんら真実は存在していません。』 (2010年6月20日号より)


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銀漱コラム vol.9


『今回も、「魔法のif」と「行動の動機付け」について少々。
「魔法のif」の誤用の一つに、「感情の記憶」と結びつけて説明されている、メソッドやレッスンを目にする事が有ります。「魔法のif」は「自分だったらどう考え、どう行動するか」と言う使い方をします。感情は用いていません。「どう感じ、考えるか」で良いのです。大事なのはその先にくる「行動」です。感情は記憶、定着させ演技に利用すると言うのは、あまりに不安定であり困難であり実質的では有りません。

しかし、この「感情の記憶」について、「魔法のif」や「無対象行動」の説明などで一緒に取り上げているメソッドが多いのが現状です。これは、スタニスラフスキーシステムの複雑難解さから生まれた、一種のご都合主義的な解釈の場合が多いのです。スタニスラフスキーは「行動」する事に重きを置いていました。

「直ちに行動せよ」、誠実な身体的行動を実行すれば、必ず内面は反応します。この「身体的行動」を大雑把に済ませると、内面の変化は起こりません。どんな小さな動作、行動でも日常生活に照らし合わせ確認する事です。誠実な身体的行動から舞台に対する信頼が生まれ、内面の精神活動も自由になるのです。

俳優は「泣く」と言うト書きを見ると、過去の体験を呼び起こし、涙を流す努力をします。何も出ないとなると、力を込めて泣こうとします。しかし、必要な感情は益々遠のき、出るのは汗ばかり。

感情は無理に再現しようとすれば、ますます逃げてしまいます。「泣く」に至る感情のプロセスを前提条件、行動の動機付けから再確認し、誠実に追って行く事です。どんなに理屈を語っても「泣く」事は出来ません。演劇は行動する芸術なのです。
 
あなたは最近、日常も含め、何事につけ「理屈」や「理論」を述べていませんか?』 (2010年6月12日号より)


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銀漱コラム vol.8


『前回までに、簡単に「魔法のif」と「行動の動機付け」についてふれました。
ここで一つ、大きな問題にぶつかります。それは、役者本人の体験、記憶からインスピレーションを得る事に頼りすぎると、演じる役のサイズが、日常的な本人のサイズと大差がなくなってしまい、演技のスケールに幅が出なくなってしまうと言う事です。しかし、役のアプローチとして、顕在意識と潜在意識の助けは必要です。何の役をやっても等身大の演技しか出来ない役者の中には、この問題の整理が欠けている場合が多いのです。例えば、マクベス役を演じるに当って、どんなに過去の経験を総動員し、置き換えの技法を用いても限界にぶつかります。言語体系が違う、文化価値観が違う、戦国時代と習慣、因習が違う等等。アプローチの方法はまた夫々が工夫するとしても、これらの違いは「時代・歴史」的ドラマを伴っているため、以前お話した「人殺し役」とは別の次元の話なのです。ましてや、お茶の間のテレビドラマのサイズでは無いのです。最低限、役者がするべき事は、作品が作られた当時の時代背景、社会的習慣、作者が伝えたいテーマ、作者その人の生い立ちと思考などなど、十分に調べ検討しなくてはならないのです。そして、機会が有れば美術館に足を運び、昔の巨匠達が描いた本物の絵画を見て、時代の雰囲気を感じ、多くを観察し質の良い情報を蓄積する事です。決して「マクベスの様なもの」を演じてはならないし、作品の世界を縮小してしまうような暴挙をしてはいけないのです。

現在では、演技のハウツー本やメソッドが沢山氾濫しています。初期の段階では、演技テクニックの参考にはなりますが、役を高めたりより大きな世界、メッセージを伝える為にはそれらだけでは、全くの役不足である事を理解する必要があります。現在、フリーペーパーのコラムで、演劇の歴史についての記事を連載中ですが、その中で、演劇数千年の歴史を駆け足で見て頂いています。正に、役者とはこの歴史を脈々と受け継いで居るのです。そう考えると、安易な役へのアプローチや些細なプライド、浅い知識だけの裏づけで凝り固まってはならないのです。役者とは、演劇とはそう言う存在なのです。

あなたは「役者」と「俳優」の違いを言えますか?』 (2010年6月6日号より)


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銀漱コラム vol.7


『前回は、簡単に「魔法のif」の使い方に触れ「観客は、この役者の体験を通してでしか、舞台を体験出来ない」とお話しました。私の尊敬するお師匠様のお一人は、本番前にいつも『生き様を見せて下さい』と激を飛ばしていらっしゃいました。お客様は正に、役者の生き様を見にやって来て、役者の生き様を通して舞台上のドラマを体験しているのです。
役者はセリフを下に舞台上で動きます。ここには若干のト書きが有るだけで、その他の動きは稽古の中で作って行かなくてはなりません。以前、「水を飲む」と言う行動を簡単に提示しました。この水を飲むと言う「行動」を実際、演技の中でやる場合「なぜ飲むのか」をはっきりさせてからでなくては、動いてはいけません。はっきりさせていない場合は「一般的」であり表現は存在していません。なにかエチュードをやる場合も同じです。動く為の動機を把握しないで行動すれば、それは単なる段取り上の動きであり、「うそ」の行動なのです。なぜそう動くのか、私はどうしたいのかを明確にしなくてはなりません。その時、感情を用いて定義してはいけません。「そうしたいから」とか「悲しいから」とかは、単にその場面の感情の説明で行動の説明にはなっていないからです。「悲しいから、外の風に当りたくて窓を開けた」これなら行動の説明として認める事が出来ます。

やはり、この行動の動機を探る時、「もしも自分だったら、こんな場合どう考え、どう行動するだろうか」、と「魔法のもしも」が役に立つのです。例えば、2時間の上演作品で、劇中で数日、或いは数年の時間か経過が有ったとします。その時間経過を2時間に凝縮した場合、指一本動かす事ですら、無駄で無意味な行動は存在出来ないのです。全てが作品の要求する所であり、全てが芝居・演技なのです。

心を静めて、指を少しだけ動かしてみて下さい。心の中で、頭の中のスクリーンで、何か感じたり、映像が動くのを感じて見て下さい。』 (2010年5月30日号より)


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銀漱コラム vol.6


『実際の芝居では、大体において台本が有り、この台本で、役者はこの戯曲がどんな空気感、質感を求めているかを、台本の中から提示されている部分を読み解きます。最初に台本を手にして読む場合、同時進行で情景をイメージしながら読み進めます。これは、役者の個人的想像ですが、ブレヒト派では、この時の第一印象を重視します。しかし、最近では役者も活字離れしている事は問題で、時として戯曲の要求している世界と程遠い事が多々有ります。この戯曲の登場人物は、紛れも無く自分以外の他人です。役者は芝居を通して、この他人の人生を体験していきます。ここで、大きな問題が起こります。育った環境も文化も時代も違う人物の人生を、どう生きたら良いか。例えば、もしも「人殺し役」だったら、「自分にはそんな経験は無いので演技不可能です」、とは言えません。そこで、過去の自分の人生経験を総動員して、解釈に入ります。ここで良く言われる「引き出し」が大事なのです。その数と中身がどれだけ沢山入っているか、そこから、イメージとインスピレーションの種を探し出します。この種を頼りに役作りのプランニングに入るのですが、ここでスタニスラフスキーが用いた「魔法のif」の登場です。役者の中にはこの「魔法のif」の存在を知らなくても、無意識に使っている事が有ります。それほど「魔法のif」は演技の構築には自然なものなのです。問題は知らずに使うか、理解して多用するかです。

具体的に演技を考える時、「もしも自分だったら、こんな場合どう考え、どう行動するだろうか」、考える時、行動する時、最初にこの「もしも」付けて考えてみるだけで良いのです。人を殺した経験は無くても、害虫を退治した事は有るはずです。この体験を置き換え変えて利用してみるのです。
こうして見てみると、過去の体験からアイディアやインスピレーションを見つけたり、もしも自分だったらと考えたり、全て、役者その人の中から生まれています。むしろ、役者の中からしか、役者の内面からしか生まれて来ないのです。そして観客は、この役者の体験を通してでしか、舞台を体験出来ないのです。』 (2010年5月22日号より)


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銀蔵コラム vol.5


『芝居において「セリフ」は重要な要素です。しかし、あくまで「要素」であって全てでは有りません。芝居は身体表現を伴って初めて成立します。芝居を始めて日が浅い役者さんの中には、昨今の声優ブームの影響も有ってでしょうか、無意識の内にこのセリフに頼ってしまい、身体表現がおざなりになる事が多々見受けられます。
日常生活で、立ち上がったり座ったり、前進したり歩く向きを変えると言う事は、無意識に難なく行われていますが、安定した状態から体重の重さを支えて、立ったり座ったり、重心を移動して動いたりと、これを舞台表現として行う場合、演者は、相当大きな心理的エネルギーの裏づけが伴わなくては出来ない、と言う事を理解しなくてはなりません。我々の演技トレーニングは、一年を通して裸足で行っています。これは、演技上での体の移動などで、きちんとした内面処理と行動の動機付けが出来ているか否かを観る為で、この裏づけの処理が出来ていないと、重心移動が不安定になり多くの場合、足の指が暴れています。

演技と言うものは、突き詰めて行けば、指一本動かしただけで演者の内面に変化を与えるものであり、それだけに、観客には指一本動かしただけで何かが伝わるものだと肝に銘じ、動作所作に十分注意と緊張を払わなければならないのです。

「水を飲む」と言う芝居をして見て下さい。何の目的で飲みますか? のどが渇いたから? 口直しをしたいから? もし「毒薬を飲む為」だったら、それだけで一本の戯曲が書けてしまうのです。

あなたは日常生活で、手や足を動かす動作で、自分の内面を観察した事が有りますか?』 (2010年5月15日号より)


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